鹿児島の家、新築・リフォーム応援サイト!
猛暑続きとはいえ、明け方の涼しさにタオルケットが手放せない9月。今回は、阿久根市脇本に立つ築180余年の「寺島宗則旧家」で過ごす古民家パッシブの心地よさをリポート!
「未来に引き継ぐ日本の宝」として寺島宗則旧家を保存活用するプロジェクトが2018年に始動
プロジェクトの趣意書によると、寺島宗則(松木弘安)は、若い頃から長崎や江戸で勉学に励み、薩摩藩主島津斉彬のもとで日本の近代化の先駆けとなる「集成館事業」に貢献した。幕府遣欧使節団や薩摩藩英国留学生引率者として海外に渡り、帰国後は、神奈川県知事、外務卿、文部卿、元老院議長などの要職を歴任した。
日本の未来を見据え国益を重視し不平等条約の改正に挑み、国内や海外との電気通信事業に取り組んだ寺島は、「電気通信の父」と呼ばれる明治維新の立役者の一人である。
本プロジェクトは、地方創生応援税制(企業版ふるさと納税制度)を活用し、寺島宗則が幼少期を過ごした鹿児島県阿久根市脇本地区に現存する旧家の修復、寺島が育った港町を想起させる景観保全・施設整 備を行い、未来に日本の宝として引き継ぐものであるとあります。
1832年(天保3年)に脇本村の武士・長野家の次男として生まれた徳太郎は、5歳のときに、同じ脇本村で親戚にあたる松木家の養子となります。叔父で養父の松木宗保は武士でありながら医者でもあり、西欧の学問「蘭学」にも詳しい人でした。
徳太郎は7歳のとき、養父に伴って長崎に行き、化学やオランダ医学など西洋の学問を学びます。
長崎で上野俊之丞の家に転居しますが、俊之丞は日本最初期の写真家である上野彦馬の父でした。長崎でオランダ語を学び、10歳で養父と一時帰郷した徳太郎は、藩主島津斉興に拝謁します。12歳で、養父と鹿児島城下の山之口馬場に暮らしますが、14歳で養父を病気で亡くします。松木家を継いで弘安と名乗ります。15歳で薩摩藩から江戸遊学を命じられ、さらに蘭学を学び、20歳で斉興の公敷医を命じられます。
22歳のとき、隠居した斉興に代わり藩主となった島津斉彬の帰国に伴い、鹿児島へ戻り、前出の活躍が始まります。
松木家の末裔にあたる松木健夫さんが、寺島宗則記念館の館長を務めます。健夫さんは、松木弘安が幼少のころから眺めていた寺島を名前にしたのは、「ふるさとへの強い思いがあったからではないか」と話します。
長崎や江戸で学び、海外へ出て見聞を広めた松木弘安にとって、養母たちの住む家の前に広がる青い海とそこに浮かぶ寺島は、
目を閉じるといつでも思い出せる心のふるさとだったのでしょう。
脇本湾に浮かぶ無人島の「寺島」は、引き潮になると渡れる道が現れるため、「脇本のモンサンミッシェルとも呼ばれる」そう
2019年に改修が終わった寺島宗則旧家は、2020年4月から「寺島宗則記念館」として一般公開されています。
現在はプレオープンということで入館無料です。約10分の紹介映像もあります。開館10時〜17時、火曜定休、P有
改修に当たったのは、阿久根市のタイセイ工務店です。
さて、本題に入ります。幕末に建てられた旧家は、増改築を重ね、現在の形になっています。以前は蔵や隠居用の別棟などもあったそう。
昭和20年代は、海沿いに松林が延びて、大樹もあったそうですが、松くい虫の被害で切り倒され、その材は、中表と表の間を仕切る梁に使われ、180余年の歴史を受け止めるかのようです。どっしりとして、目には見えない何かに守られているような感覚は、古民家ならでは。
涼し気な欄間、夏の日差しを遮る深い軒、その効果は縁側の日陰に見ることができます。
開け放されたガラス窓から部屋中を風が自由に吹き抜けていきます。
木々の緑葉から蒸散されるわずかな水蒸気が乾いた風の熱を奪っていくようで、微風でも心地よく感じられます。
「さっきまでは風がなかったけど」と健夫さんがやってきて、
かつては入り江が奥まで続き、冬の山川、夏の脇本といわれた良港の話を切り出します。
脇本というと、長島への通り道で、海水浴場やサーフィンのイメージしかなかったのが、寺島宗則記念館のおかげで、新たな滞在スポットとしての魅力的がプラスされました。
帰省のたびに宗則が縁側から眺めたこの景色は、一見の価値があると思います。
わきもと歴史マップを手に、あるいは裏面に印刷された食べ歩きマップを参考に、
絶景ウオークを楽しんでみてはいかがでしょうか。そして、古民家パッシブの良さを肌で実感してほしいものです。